最終電車でうたた寝をしていた男が目覚めると、そこはまったく異質な世界――海藻に覆われた電車の中でした。目の前に広がる奇妙な光景に、彼は恐怖と不安に駆られながらも、進むしかない。この先、何が待っているのでしょうか?
【本編】
最終電車に乗り込んだ男は、心地よい揺れに身を任せながら、疲れから自然と瞼が重くなっていった。忙しい日々の終わりに、ようやく迎えたわずかな休息。彼はウトウトと居眠りを始め、電車の走るリズムと車内の静寂が、意識を遠くへと誘っていく。
どれくらい眠っていただろうか。男はふと目を覚ました。だが、目の前に広がる光景に言葉を失う。彼が乗っていた電車は、いつの間にか見知らぬ場所を走っていた。いや、「走っていた」と表現するのが正しいのかも分からない。周囲の景色は完全に変わっていたのだ。
窓の外には、海の中のような深い青い世界が広がっていた。波のように揺れる海藻が、電車の窓にまとわりついている。そして、その海藻は車内にも侵入し、男の足元や座席の隙間から生えていた。目を凝らすと、床にも海藻が生い茂っており、それがまるで生き物のように緩やかに動いているのだ。
「何だ、ここは……」
男は不安を覚え、隣の乗客に声をかけようとした。だが、周囲を見渡しても、車内には誰一人として乗客はいなかった。静まり返った車内に響くのは、かすかな波の音だけだ。どこからともなく潮の香りが漂い、男の頭は混乱していく。
男は席を立ち、ドアの方へと向かった。ドアを開けようと試みるが、手ごたえがない。まるでこの電車は閉じ込められているかのようだ。車両を移動しようとしたが、どの車両も同じように海藻が茂り、出口を阻んでいる。
焦り始めた男は、ふと天井から垂れ下がる一筋の海藻に目を留めた。その海藻は人の髪のように見え、さらに視線を上げると、それが繋がっている先に人の形をした何かが浮かんでいるのに気づいた。暗がりの中で、薄ぼんやりと姿を現すそれは、まるで誰かが逆さまに吊り下げられているように見える。
「誰だ、君は?」
男は声を出して問いかけたが、返事はない。代わりに、その影がゆっくりと動き、こちらをじっと見つめているような気配がした。息が詰まりそうなほどの沈黙が続いたあと、突然、電車が大きく揺れた。驚きで後ろに転んだ男は、もう一度影を見る。すると、その影はふわりと姿を消し、再び静寂が訪れた。
「夢だ、これは夢に違いない」
男は自分にそう言い聞かせた。しかし、現実感がどんどん薄れていく中、何かが胸の奥でざわめいていた。電車は再び滑るように走り出し、海藻がますます絡みついてくる。彼は動けない。心臓が鼓動を早め、冷や汗が背中を伝った。
その時、車内にどこからともなく聞こえてきたアナウンスが、静けさを破った。
「次は、終着駅です」
アナウンスの声は妙にこもっており、聞き取りづらかったが、それが何を告げたのかはすぐに理解できた。終着駅──その言葉に不安がさらに膨らむ。これが本当に終着駅なのか、そもそもどこへ向かっているのか。男はふと、窓の外を見た。深い海の底のような景色の中に、小さな光が見える。そこに駅があるのだろうか?
電車が徐々に減速し、停止する感覚が伝わる。目の前のドアがゆっくりと開かれた。男は足を動かすことができず、ただそこに立ち尽くしていた。ドアの向こう側には、誰かが立っていた。見覚えのある顔だ。いや、違う──それは彼自身だった。目の前に立っているのは、自分と同じ姿をしたもう一人の男だったのだ。
その男は、何も言わずに微笑んだ。そして、海藻に包まれた手を差し出した。
男は動くことができず、ただ見つめ返すしかなかった。次の瞬間、電車の中に潮騒が強く響き渡り、全てが白い光に包まれていった。
目が覚めた時、彼は再び最終電車の座席に座っていた。いつもの揺れ、いつもの車内。しかし、あの出来事が全て夢だったのか、現実だったのか、彼にはもう分からない。窓の外を見ると、夜の街が流れていく。だが、その一瞬、ガラスに映った自分の姿が、どこか違って見えた。
車内アナウンスが再び流れる。
「次は、終点です。」
【最後に】
この物語は、日常の中に潜む非日常をテーマにしています。最終電車という、私たちがよく知る空間でありながら、ふとした瞬間に全く別の世界へと引き込まれる。海藻に覆われた電車という異世界は、現実と幻想の狭間を象徴しています。結末もはっきりとせず、夢か現実か分からないまま終わることで、読者自身に想像を委ねる形になっています。こうした含みのある終わり方は、日常の不安や不確実性を表現しています。皆さんも、いつもの通勤電車が突然異世界への入り口になるかもしれません。
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